今日、1月6日から始まるNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の主人公である日本人初のマラソンでのオリンピック選手である金栗四三(かなぐりしそう)とはどのような人物だったのかまとめてみました。

大河ドラマでは主演の金栗四三役に中村勘九郎さんで行われますね。

楽しみすぎます!!

それでは振り返っていきます。

金栗四三の誕生

金栗さんは明治24年(1891年)8月20日に熊本県の玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)に造り酒屋の家庭に8人兄弟の7人目として誕生しました。

1891年は何があった年かというとエジソンがラジオの特許を取った年でも、日本では度量衡法(尺→メートル,貫→キログラム)が公布された年です。

すごく昔に感じますね。

金栗さんは、吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業し、10才で玉名北高等小学校(現南関町)に入学します。

その頃は往復12kmある道のりを毎日、走って通学していました。

のちに金栗さんはのちに回想のなかで、「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?と、よく聞かれますが、東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」と語っています。

そののち明治38年(1905年)に玉名中学校(現玉名高校)に進学した金栗さん、学校敷地内の寄宿舎で生活し、クラスで1〜2番の優秀な成績で特待生として授業料免除を受けていました。

金栗四三とマラソンの出会い

明治43年(1910年)に東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学した金栗さんは、校長の嘉納治五郎に才能を見出されます。

嘉納に見出された四三は力をつけていって、その当時のオリンピック参加に向けた予選会で当時の世界記録を27分も縮める2時間32分45秒を大記録を出して優勝しました。

引用:玉名市|マラソンの父 金栗四三

ゼッケン番号51が金栗さんです。

日本人初のオリンピックに|ストックホルムオリンピック

明治45年(1912年)に日本人初出場のオリンピック出場となった第5回ストックホルム大会は、最高気温40度の猛暑中で行われて、マラソン選手に出場する68人のうち34人がリタイアするなどかなり過酷なレースとなりました。

金栗さんも日射病にかかり、26.7キロ地点で棄権となってしまいます。

金栗さんが棄権した要因としては日射病だけではなく、次のつが挙げられます。

  1. オリンピック初出場による選手サポートのノウハウ
  2. スウェーデンまでシベリア鉄道で20日かけて移動したこと
  3. オリンピック開催中が白夜による不眠
  4. スウェーデンには米がなく食事に苦労したこと
  5. 大会当日、迎えがこなかったため、走って会場までいかなければいけなかった

上記の5つが挙げられます。

金栗さんが出場したマラソンで熱中症で倒れて、次の日に死亡する選手が出るなど過酷だったことがわかります。

このとき、スウェーデンでは消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになりました。

正式に棄権していたわけでなかったため、1967年3月21日に金栗さんが現地に赴き、競技場に設置されたゴールに入り、ゴールテープを切りました。

このときの54年8ヶ月6日5時間32分20秒3という記録がこれからも絶対に破られることののないと言われています。

ストックホルムオリンピック後

東京高等師範を卒業し、研究科へ進んだ大正3年(1914年)に22歳の時に親戚だった玉名郡小田村(現玉名市上小田)池部家の養子となる話がまとまり、4月10日に結婚。その後、東京府女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけました。

当時の金栗さんはもっとも選手として脂の乗った状態で次のオリンピックである1916年のベルリンオリンピックではメダルが期待されましたが、第一次世界大戦で中止。1920年のアントワープオリンピックでは16位、1924年のパリオリンピックは途中棄権という結果に終わりました。

1917年には、東海道駅伝徒歩競走(京都の三条大橋と東京の江戸城・和田倉門の間、約508キロ、23区間)の関東組のアンカーとして出走していて、

1920年より開催されている東京箱根間往復大学駅伝競走を開催するためにも尽力した。

1983年(昭和58年)11月13日に92歳で生涯を終えました。

金栗さんが残した言葉として有名なもの

ストックホルムオリンピックのゴール後
「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

「体力、気力、努力」

などが挙げられています。

本日からの大河ドラマ「いだてん」とても楽しみです!

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