正月の風物詩ともいえるニューイヤー駅伝、箱根駅伝。

世界初というか日本発祥のスポーツである駅伝は、一番最初の大会は京都から東京までの全23区間、516kmを走る「東京奠都(てんと)記念東海道駅伝徒歩競走」が最初です。

駅伝は日本の文化といってもいいでしょう。駅伝を通して数々の感動やドラマから日本人はとても好きなスポーツと言えるでしょう。

 

世界で大会を開催しているの?

と聞かれると、現在は開催していないといえます。

本当に日本の文化なんです。

国際的な大会は、2014年まで「国際千葉駅伝」というのがありましたが、スポンサーの撤退などの理由で現在はありません。走路員を昔、したことがありましたが、外国人だけのチームの駅伝を見るのもなかなか新鮮でした。

 

そんな「駅伝」の始まりについて紹介していきます。

「駅伝」の由来

 駅伝とは?

数名の選手がチームを作って、長距離を「襷(タスキ)」をバトンとしてリレー形式で走ってゴールまでの記録を競う競技です。

一番の特徴として自分の区間を走り終えると次の走者に「襷(たすき)」を次の走者に託すということです。

海外でも「EKIDEN」だったり、「ロードリレー」だったりと言われています。

「駅伝」の言葉の由来

駅伝という言葉の根源はとても古くて「日本書紀」にもその痕跡を見ることができます。「日本書紀」が完成したのは養老4年(720年)なのでいまから約1300年前とすごく古いのが分かります。

律令時代(大宝律令の頃)に唐の制度にならって取り入れられた「伝馬」や「駅馬」の制度がそれにあたると言われています。

馬を使って中継所となる駅をつないで各地と情報のやり取りをしていました。

鎌倉時代から現在の郵便制度のような「飛脚」の制度は「伝馬」や「駅馬」の制度の名残ともいえます。

日本初の駅伝大会ー東海道五十三次関東関西対抗駅伝

日本で初めて行われたのは、金栗四三が現役の時代の1917年(大正6年)4月27日に東京奠都50周年を記念して、読売新聞社が主催で行われた「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」です。

奠都(てんと)とは、新たに都を定める事をいう。
明治天皇が東京に移った際は、京都を都として残す形をとり遷都(せんと)ではなく東京奠都が行われた。

 

区間と距離は23区間約516kmと超長丁場の駅伝です。

単純に516kmを23区間で割ると22.4kmなので、京都から東京まで選手は箱根駅伝の距離を走り続けていたということになりますね。

箱根駅伝は、往路と復路の2日間に分かれて競技が行われていますが、日本初の駅伝は、昼夜問わずスタートしてゴールまで513kmを一気に走破する駅伝でした。

スタート地点は京都三条大橋の横には「駅伝発祥の地」の碑が立っています。

スタートしたのは4月27日午後2時にスタートして東京上野・不忍池前にゴールしたのが4月29日の午前11時34分でかかった時間は、41時間44分です。

東京都上野の不忍池の前にも京都と同様に記念碑が立っています。

当時の様子について「駅伝ひとくちメモ」のページの駅伝の始まりは「東海道」!には以下のように書かれています。

区間距離をみると20キロ前後が多く、最長区間は22区の33キロ(藤沢ー川崎)、最短区間は19区の13キロ(三島ー箱根)であった。
最初の計画では〈東京〉〈名古屋・京都〉〈大阪〉という3団体による地域対抗で行われる予定だったが、大阪はチーム編成できなかった。その結果、関東組(東京)と関西組(名古屋・京都)の東西対抗になってしまった。『日本列島駅伝史』によって両チームのメンバー構成をみると、関東組は第一高等学校、東京高等師範、早稲田の学生が占めていた。関西組は名古屋の愛知第一中学が中心になっている。中学2年から5年までの生徒が大半で、あとは卒業、職員たちが名を連ねている。15歳の生徒から52歳の校長までが走った。いわば「オール・愛知第一中学」という感じであった。中学生と高校・大学生の争いだったから勝負は明らかで、最終成績では関東組が1時間24分ほど先んじている。
日本最初の駅伝は大会が始まって日を追うにつれて、世の大きな反響を呼んだ。八ツ山からトップで東京に入った最終走者の金栗四三(高等師範在学中 27歳)は、大きな歓声で迎えられ、日本橋あたりでは、三越や白木屋の窓から身を乗り出した人たちが帽子やハンカチを振って喝采した。上野の静養軒から池之端界隈は見物客でごった返していたという。広小路を駈けてきた金栗は、そんな大観衆を縫うようにして走り、不忍池を一周して博覧会場内のゴールにとびこんだ。
駅伝の最終日は博覧会の入場者数も平日の五割増しとなり、主催者側の狙いどおりに大当たりをとったが、「駅伝」創始者の土岐善麿は、この「駅伝」がゆえに読売新聞社を翌年退職している。大会の経費が予算をはるかにオーバーして、土岐は責任を負わされるはめになったのである。2日目、3日目と駅伝競争の一行が東海道をのぼって来るにつれて応援者も増えた。走り終えた選手たちも帯同して、かれらがみんな宿舎で食事をとった。飲み食いのツケが後に読売新聞社にまわってきたのというである。

関東の最終走者は「金栗四三」選手というのも,

また駅伝には「繋ぐ」ということがあるんだと感じますね。

まとめ

金栗四三さんの尽力で3年後に箱根駅伝が生まれていることを考えるとこれから私達も駅伝のタスキを次の世代につないでいくべきですね。感動のドラマをこれからも見ていくためにも、ランニング人気をこれからもっと発展させていきましょう!

 

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